モラヴィア自伝 /フェルトリネッリ出版社

 
目 次
1.はじめに
2.アルベルト・ モラヴィアの語る文学について
3.フェルトリネッリ出版社とジャンジャコモ・フェルトリネッリ
4.旅の情報:スペイン広場の飲食禁止
5.あとがき

1.はじめに

 大学の先輩から、お前はイタリアを仕事にしているのだからと、「モラヴィア自伝」を読むことを勧められました。 アルベルト・ モラヴィアとは日本でも「軽蔑」や「無関心な人々」で知られる著名なイタリアのユダヤ系文学者です。ナチスのローマ占領に際して同じく女性文学者のモランテと急遽カソリックの結婚式を挙げて、式後、図々しくも教会の保護を求めて断られたために、カンパニア州の山岳地帯に夫婦揃って避難したことでも知られています。
 
 このモラヴィアには、弊社の創業者・印出清明がかつてインタビューしたことがあると、最近になって彼のパートナーのスェーデン人女性から聞きました。「モラヴィア自伝」には、1970年代から80年代にかけて左右両翼が政府と激突するイタリアでは鉛の時代と呼ばれる時代に、奇矯な活動を行い、最後はミラノ近郊の送電線の下で、爆弾で事故死した フェルトリネッリのことが書かれていました 。どこから見ても右翼としてしか見えない創業者の印出が、 フェルトリネッリが支援した<連続闘争Lotta Continua>の使い走りをしているんだと自慢していました。 自伝を読んで弊社が創業した頃の激動のイタリアを思い浮かべてしまいました。

2.アルベルト・ モラヴィアの語る文学について

 モラヴィアの読書遍歴は、日本人に親しみのある欧米の作家が多いです。その原点は、本人は自らを「未成年」「白痴」の主人公と自称するように、ドフトエフスキーから始まっています。自分になぞらえて実存主義の元祖はドフトエフスキーだと、臆面もなく言うところが、いかにもイタリア人らしく感じられます。
 
<トーマス・マン「魔の山」>
 マンのサナトリウムは理念のサナトリウム。文学上の概念としてのサナトリウムとモラヴィアは主張します。実際のサナトリウムはモラヴィアの言うように、生=性への欲求が強く、非常にドロドロしたものだったことが、モラヴィア 自伝 を読むと、自然に感じられます。
<プルースト「失われた時を求めて」>
 「失われた時を求めて」について、関心が深いモラヴィアは、主人公の恋人のベルティーヌが男であることを指摘していました。私自身はこの自伝を読むまでは、女だと思っていました。
<ミハエル・ブルガーコフ>
 「巨匠とマルゲリータ」で知られるロシアの滑稽作家、ミハエル・ブルガーコフに言及があるのには驚きました。「巨匠とマルゲリータ」はローリング・ストーンズのミック・ジャガーがこの本になぞらえてSympathy for the devil(邦題:悪魔を憐れむ歌)を歌っています。歌そのものの通り、ロシアの社会主義体制を、皮肉っている非常に興味深い作品です。
<カルロ・レーヴィ>
 モラヴィアの文学的盟友ということでは、「キリストはエボリで止まった」のカルロ・レーヴィが筆頭にあげられます。自伝では、ロンドン留学時代に同じペンションで一緒だったことが語られており,このことがモラヴィアの左派的傾向に影響したように思えます。
<三島由紀夫>
  モラヴィアは、日本訪問時に、 三島由紀夫に会っています。軍服の三島由紀夫は見せかけで、デカダンだったのではないかと見抜いています。これは「サン・セバスチャンの虐殺」を模倣した写真集・薔薇刑と通じていることが感じられます。
 
 このほか、実存主義のサルトルやアルベール・カミュ、「火山に恋して」のスーザン・ソンタグ、「ロード・ジム」のジャック・ロンドン、「薔薇の名前」のウンベルト・エコー、ヘミングウェイに言及されていて面白いです。文学好きの方は、 モラヴィア自伝を 是非ご一読ください。

3.フェルトリネッリ出版社とジャンジャコモ・フェルトリネッリ

 ジャンジャコモ・フェルトリネッリ(1926ー1972) は、イタリア屈指の富豪、 フェルトリネッリ一族の後継者として生まれ、1955年に5名で、フェルトリネッリ出版社を設立しました。当初は金持ちのドラ息子のお遊びと思われていた同社は、ロシアの詩人でノーベル文学賞に挙げられたパステルナークの「ドクトル・ジバゴ」を西側で初めて出版するに及んで、一躍世に知られました。ジャンジャコモの社主時代には、ルキノ・ヴィスコンティによって映画化されるイタリア貴族ランペドゥーサの「山猫」、ヘンリーミラーの「南回帰線」、神の代理人で知られるホーホフートの作品の出版で知られています。
 
 1960年代にキューバのカストロやゲバラに出版を任されるに及んで、急速に左傾化し、極左グループに財政支援を行うほか、自ら武装グループを結成して、モロ首相殺害で知られる「赤い旅団」と提携までしてしまいます。当然、警察から目をつけられ、潜伏活動に入ります。そして1972年3月14日に ミラノ近郊の送電線の下で、爆弾で事故死した 死体が発見されています。
 モラヴィアは フェルトリネッリのミラノの自宅を訪問したことがあるとのことです。著名な作家が訪問するだけのことがある出版社であったのかと、感じられます。なんと、フェルトリネッリは、迷彩服を着て、自宅の庭にしつらえたジャングルの中から現れたとのことです。彼についてモラヴィアは「フェルトリネッリは、莫大な財産をもっていることから来る罪の意識におそらく原因するのだろうが,耽美的なディレッタンチズムの一種だと言えるのではないか。」「フェルトリネッリは大出版社の社主であることに満足すべきだったのかもしれない。彼の出版社は当時のイタリアで最良の出版社の一つだったのだから。彼はセグラーテ近くの鉄塔に爆薬を仕掛け,そこで死ぬ結果になったのだが、彼をあの行為に駆り立てたのは、行動的な人間に決まってみられる幻想的で情熱的な何かなんだよ。」と指摘しています。

4.旅の情報:スペイン広場の飲食禁止

 残念ながら映画「ローマの休日」のようにスペイン広場でジェラート(アイスクリーム)を食べることは現在できません。2004年に制定されたローマ市の条例によりスペイン広場での飲食は禁止されました。
 
 「ローマの休日」を真似てアイスクリームを階段で食べる人が後を絶たず、階段にゴミやアイスクリームのベタベタ汚れが手に余るほどになったためです。遺跡の保護をすることが目的で、食べ物や飲み物を口にしたり、ゴミのポイ捨ては、最高で160ユーロの罰金となるので、真似をしないでください。

5.あとがき

  チビタ・ディ・バニョレジョは、2500年以上前にエトルリア人によってつくられた街ですが、台地辺縁部の崩落によってその上の建物が崩れる危機に常にさらされており、「死にゆく街」(il paese che muore)とも言われています。弊社のローマ担当の Midoroma さんは、友達と総勢8人で夏の遠足に出かけました。 次回は 死にゆく街・チビタ・ディ・バニョレジョへの夏の遠足 をご紹介します。
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