ローマから吹く風第59号
バチカンの変化・バチカン公会議

 
目 次
1.はじめに カトリックの隆盛
2.バチカンの変化・バチカン公会議
3.世界遺産のバチカン市国
4.旅の情報:ローマの朝市Montagnola
5.あとがき

1.はじめに カトリックの隆盛

 日本でもITや人工知能の時代を迎えて、宗教の衰退が伝えられています。どちらかと言えば宗教は古くさいもの、年寄りのもの思われています。寺院を訪問するとそのような善男善女であふれているとの印象です。このようなことはイタリアでも変わりないと思いこんでいました。ところがカトリックの信者は3億人から11億人に急速に増加しています。
 2013年に就任したフランシスコ・ローマ教皇は初めての南米出身の教皇です。南米で広がっている「解放の神学」も容認する姿勢と聞きます。カトリックもいつの間にやら世界政治の前面に出ているようになっています。どうやらバチカンも大きく変化しているようです。

2.バチカンの変化・バチカン公会議

  まるで映画のお話のように思えますが、アウシュビッツでのユダヤ人虐殺に関与したナチスのSS大佐アイヒマンが、ナチスの救援組織“オデッサ”の助けで南米に逃亡した際に、偽造パスポートを準備して助けたのは中部イタリア・アッシジを拠点とするフランシスコ派の修道院でした。フランシスコ派は、ローマ教皇に忠実な宗派であることから、教皇の承認のもとナチスに協力したと見られます。
 1964年に発表されたR・ホーホフートの小説「神の代理人」では、ナチスに協力したバチカンを批判しており、発表当時はバチカンのナチス協力について大きな論争となっています。ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビア(とくにクロアチア)等カソリックが強い地域では、ファシズム勢力に協力して、ユダヤ人虐殺にカトリックが手を貸したことは、この論争の中で明らかになっています。とりわけクロアチアではカトリックの支持するファシズム政党ウスタシャの手を借りて、ロシア正教徒の強制改宗を進めていました。そのためクロアチアでは1941年から45年の間に70万人から100万人のセルビア人が親独ウスタシャによって虐殺されたと言われています。ナチスのユダヤ人虐殺に隠れて余り注目されていませんでしたが、クロアチアの人口比でいえばとんでもない数の人びとが殺されています。ウスタシャの残忍さは際立っており、ナチスも震え上がったとのことです。
 このナチスへの協力政策を推進したのが、1939年から58年まで在位した教皇・ピウス12世でした。ナチスを反共の砦として位置づけ、バチカンが支援を行っていたのです。47号で紹介したドイツ軍のローマの平和的撤退も、このような協力関係があったものと見られています。
 1958年10月にピウス12世の跡を継いで就任したヨハネ23世は、76歳の高齢であったことから、つなぎ役の教皇と見られていました。ところがこういった大方の見通しを覆して、ヨハネ23世はバチカンの宗教改革に乗り出したのです。この宗教改革が行われたのが、ヨハネ23世が開催した第二バチカン公会議です。1962年に開催された第二バチカン公会議は1545年〜63年に行われたトリエント公会議以来500年ぶりのカソリック宗教改革の会議でした。
 この宗教改革で重要なのは他宗派との和解です。1965年の第二バチカン公会議の第4会期中に、カソリックに属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神で結ばれていると言明しました。そして1965年10月28日の聖ペトロと聖ユダの祝日に公開会議を行い、ユダヤ教とその教会との正式な和解を宣言しました。この他の重要な決定としては、それまで禁止されていた現代語訳聖書の一般教徒の所持を認めたことです。
 バチカン改革の方向性はヨハネ23世によって定められました。ユダヤ人思想家のハンナ・アーレントは「暗い時代の人びと」の中で、暗い時代に輝きを持った人として、ロンカーリー=ヨハネ23世をあげて、高く評価しています。
 この後、1978年10月に教皇に就任したヨハネ・パウロ2世は教皇として初めてローマのシナゴーグを訪問し、ホロコーストの謝罪を行いました。さらに2000年3月にはエルサレムを訪問し,反ユダヤ主義を悔い改めることを表明し、ようやくバチカンとユダヤ教との間で和解が成立しました。実に和解に到達するまで30年以上かかったことになります。

3.ローマの世界遺産のバチカン市国

 エトルリアやローマ時代の遺跡が残り、中世のパラッツォやヴィラが現存し、ルネサンスやバロックの至宝が展示されているローマは、世界遺産の宝庫です。1984年に世界遺産に登録されたヴァチカン市国は、世界最小の独立国です。実際には独立国といっても税関等は無く、ローマの中で政治的に独立した場所と言えます。
 バチカン市国にはカトリックの総本山であるサンピエトロ寺院があります。ここはキリストの1番弟子ピエトロが殉教したと伝えられている場所です。サンピエトロ寺院は、カトリックのトップとなるローマ法王が住んでおり、法王が交代する際のコンクラーべという宗教会議もここで行われています。3世紀に、聖ピエトロの墓の上に建てられ、何度かの改修が行われ、17世紀に完成したサンピエトロ寺院はミケランジェロ、ラファエロ、ベルニーニ… ルネッサンスの巨匠達が腕をふるった、建物全部が芸術作品です。カトリックの総本山でローマ法皇が居住しています。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロなど優れた建築家によって建設が進められ、現在の規模で17世紀に完成するまで、約200年かかりました。歴代の法王によって収集された作品の並ぶ27の美術館、博物館は、必見の場所です。
 ヴァチカン美術館にはミケランジェロ、ラファエロ、ベルニーニなどの世界最高傑作の美術品が収蔵されています。中でもシスティーナ礼拝堂には、15世紀末に、シクストゥス4世が建て直させた建物で、ルネサンス建築の代表作。内部にミケランジェロの2点のフレスコ画、「システィーナ礼拝堂天井画」、祭壇壁画「最後の審判」があります。ラファエロの間は、ラファエロとその弟子たちによる作品がある4つの部屋の総称です。ここには天才・ラファエロの最高傑作と言われる「アテネの学堂」や大壁画「ミルヴィオ橋の戦い」があります。
 
 バチカンの紹介は→https://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/vaticano.html
 バチカン美術館の紹介は→https://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/vati.html

4.旅の情報:ローマの朝市Montagnola

 野菜や果物、食料品を扱う朝市は、ローマのあちこちにもあります。写真写りが良いのは、旧市街内のカンポ・デ・フィオーリの朝市です。しかし、カンポ・デ・フィオーリは、もはや観光客相手で高いです。普通のローマ人なら買わない土産用に包装したものなども売ってます。見るのは楽しいです。
 
 普通のローマ人が通う大きな朝市は、旧市街を出てローマの南、アッピア街道の方にあります。Mercato della Montagnolaといいます。ローマの家庭の食生活が想像できます。庶民向けのメルカートなので、よりディープな雰囲気が味わえます。数多くの屋台には新鮮でしかも安価な色とりどりの季節の野菜、果物、魚介類が山のように積まれています。
<朝市Montagnola >
 住所:Via Pico Della Mirandola, 00142 Roma
 ローマのメルカートの情報は→https://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/mercato.html

5.あとがき

 このメルマガを発行させていただいて、はや5年。60回を迎えたことに気づきました。お祝いを兼ねて、何か記念企画を考えるのがスジなのでしょうが、降って湧いたようなコロナ騒動。何を紹介しても、イタリアにお越しになることはできないので、メルマガを出すモチベーションが湧きません。そんな折に弊社でお仕事してくださっているローマの山根みどりさんから、イタリアのコロナの現状を知らせていただきました。ということで、次回はローマでコロナです。
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