ローマから吹く風第47号
モンテ・カッシーノ寺院とヴェントゥーリ神父

 
目 次
1.はじめに モラービィア夫妻の結婚式
2.モンテ・カッシーノ修道院の破壊とヴェントゥーリ神父
3.旅の情報:イータリーのイートインコーナー
4.あとがき

1.はじめに

 私事で恐縮ですが、私ども夫婦はいわゆる結婚式をしていません。そのかわりにするために新婚旅行で行ったイタリアで友達の助けを借りてフィレンツェの教会で神父様から祝福していただきそれを証拠写真にして結婚式を挙げたことにしました。この友達はおばさんがローマで日本人シスターをしている奴でしたが、彼はアルノ川河畔から向いの丘を眺めて「どの教会にする。手頃な教会を選べよ。俺が結婚式の交渉をしてやる。」とのたまいました。教会を決めたあと、彼は「日本のカソリック教徒が結婚式を挙げたくて,わざわざここまでやってきた」と嘘八百を並べ立て交渉を始めました。品の良い神父様だったのですが、結婚式にはカソリック教徒の証明書が必要と頑として譲りませんでした。でも最後に折れて、結婚式ではなかったのですが聖壇の前で祝福をあげてくれました。いかにもイタリア的ないい話です。おかげで40年ほどまだ仲良く暮らしています。
 
 この友人が,当時イタリアに留学(遊学)中だった、いまは亡き弊社の創業者・印出清明君でした。著名な文学者のモラービィア夫妻(モラービィアはユダヤ系の血が混じっていた)が、ナチスのローマ占領に際して、急遽カソリックの結婚式を挙げたことを知ったとき、このことを思い出しました。モラービィア夫妻は結婚式のあと、ずうずうしくもカソリック教徒であるからと教会に保護を求めました。これについてはあっさりと断られたとのことです。

2.モンテ・カッシーノ修道院の破壊とヴェントゥーリ神父

 ローマを占領したドイツ軍はナポリ北方の山岳地帯に“グスタフ・ライン”という抵抗線を敷くと共に、ナポリ近くの湿地帯にマラリア蚊を撒く生物化学兵器を使う作戦を敢行しました。これは米兵よりも飢餓状態にあったイタリア市民を直撃し55000人以上の人が亡くなったといわれています。しかし何もドイツばかりが悪いのではありません。ドイツ軍の毒ガス攻撃に備えて、米軍は密かに毒ガス(サリンだったと思います)を輸送船でナポリ港に持ち込んでいました。毒ガス船と知らずにドイツ軍が空爆した爆弾が輸送船に直撃して、ナポリ市に毒ガスが拡散し、5000人の市民が亡くなりました。両軍ともこの話を隠しており、この話が明らかになったのは、戦後です。解放軍のアメリカ兵は缶詰1個で飢えた若いイタリア女性に体を提供させていました。あまりのひどさのため米軍が禁止令を出したほどです。いずれにせよ戦争はろくでもないものです。
 さて、“グスタフ・ライン”にあったのがモンテ・カッシーノ修道院でした。この修道院は6世紀に聖ベネディクトが初めて開設した修道院で、古代から中世にかけてのヨーロッパ学芸の中心となった寺院です。キリスト教の聖地であるばかりでなく、現存していたら世界遺産間違いなしの貴重な文化財でもありました。 ここを防衛拠点としたドイツ軍と米軍の間で激戦が行われ、この人類遺産が徹底的に破壊されました。このたたかいでは米兵に戦線逃亡者や自傷行為が相次ぎました。パットン将軍が野戦病院で新聞記者を前に、戦場恐怖症に陥って収容されていた兵士を殴打した有名な事件が発生したのもこの戦いでした。ちなみに映画「パットン将軍」でもこのシーンが再現されており、当時、大きな新聞種になったということです。
 
 この戦いが、というか聖地モンテ・カッシーノが破壊されたことを知ったバチカンが動き出したのです。次の防衛線がローマになることを危惧して。。。。この使命をになったのが、ピエトロ・タッキ・ヴェントゥーリ神父でした。ヴェントゥーリ神父は、バチカンが独立国家となることを認められた1929年のイタリア国とかわしたラテラノ条約をムッソリーニのファシスト政権とまとめあげた人物です。ようはファシスト側との交渉チャンネルを持っていた神父様なのです。実は冒頭の文学者のモラービィア夫妻が結婚式をあげてもらったのが、この神父様でした。超大物神父様で、この神父様に結婚式をあげてもらえること自体、モラービィア夫妻がセレブだったことを示しています。結果は先に述べた通りですが、狙いは誰が見ても明らかです。恥も外聞も無いといっては何ですが、これもあまりに人間的な行為だと思います。
 
 なんとヴェントゥーリ神父はドイツ軍との交渉に成功し、ドイツ軍は戦うことなく撤退します。もちろんどのような取引で合意されたかは、一切明らかになっていません。ただのちにバチカンがナチスの高級将校の逃亡を助けたことは良く知られています。アルゼンチンで捕えられて、イスラエルで絞首刑となったSS大佐・アイヒマンもこのルートで南米に逃亡したといわれています。一時、ナチス党のナンバー2であったマルティン・ボルマンもこのルートで逃げたとの噂が絶えず,アイヒマンも裁判でボルマンは南米で生きていると証言しています。
 映画「オデッサファイル」はこのナチス逃亡をモチーフとした映画です。門外漢が見ると、バチカンが借りを返したように見えます。でも事実はどうであれ、ローマが救われたのは、人類の好運だったと思っています。7つの丘やサンタンジェロ城そして連なるサンピエトロ寺院は良い防衛拠点になったことでしょうから。。。。。。
 
 ちなみに1945年のロッセリーニ監督の「無防備都市」は、この時代のドイツ占領下のローマを描いた作品としてネオ・レアリスモの不朽の名作となっています。ここでは勇敢だったイタリアの名もなき市民、聖職者が描かれています。政治的な立場は別として、イタリアにはどこにも人間的なイタリア人がいました。 

3.旅の情報:イータリーのイートインコーナー

  イタリアでは、豊富なイタリア各地の食材を背景に、選りすぐりの高級食材を売る高級食材店が発達しています。このような中で、2007年にトリノで開店したのが、大規模高級食材店のイータリーです。例えばローマ店であれば、17000平方メーターの大規模なビルの中に選りすぐりの肉製品、野菜、果物、魚・貝・海産物、ワイン、パスタ、オイル製品、 調味料等19分野のイタリア産食品を並んでいます。その中には料理の本迄あります。
 
 イータリーの特徴は、レストランやイートインコーナーがあること。特にここのイートインコーナーは、フロアごとに設置されており、手軽な値段で食事を楽しむことが出来ます。下手なトラットリアよりおいしく、10ユーロぐらいでも食事が出来るので、大変にぎわっています。最近は観光客にもその利便性が知られるようになっています。このイータリーはローマ、ミラノ、フィレンツェといったイタリアの大都市には店があります。お土産等を買うついでによられては如何でしょうか。
 <EATALY Roma>
 住所:Air Terminal Ostiense,Piazzale XII Ottobre 1492
 TEL:06 90279201
 ホームページ:http://www.roma.eataly.it/

4.あとがき

 今年(2019年)の2月5日に日本画家の堀文子さんが100歳で亡くなられました。この堀さんが70歳近くになってアトリエを開いたのが、中部イタリアのアレッツォでした。その作品は画文集「トスカーナの花野」「トスカーナのスケッチ帳」としてまとめられており、堀さんの後期の作品として人気の高いものとなっています。次回は堀文子さんの「トスカーナの花野」のお話です。
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