メールマガジン"ローマから吹く風"第29号
イタリアのスローシティ/フィアンメッタの家
フィアンメッタの家
1.はじめに
イタリアではローマにマクドナルドが開店するにあたって、伝統的な食文化を維持すべきではないかとの議論がおこり、スローフード運動が開始されました。食文化の議論は更に発展して、効率性と利益ばかり追求するのではなく、伝統的な食文化を維持するために必要な持続可能な環境社会を目指すべきであるという考え方につながりました。この結果イタリアで生まれたのが今回ご紹介するCitta Slow・スローシティ運動です。
もともとSlowとは、ファストフードのFastに対応した新しい造語です。ですからいわゆる「おそい、ゆっくり」という英語の原語の意味合いと異なったものです。言ってみれば効率と利益を追求する米国式のモダニズムに対するアンチテーゼだと考えられます。イタリアとの仕事をしていますと、ひたすら西欧的なビジネスを追求していると思っても、実際の生活では、このスローという概念に遭遇する場面が多々あります。それでありながら、イタリアにも現地特有のファストフードがあり、スーパーマーケットもあり、チープな中国産の衣料品や雑貨が良く売れています。このような矛盾の中で生きながら、矛盾をものともせずに生きているのが、現代のイタリア人のように思えます。
スローフード運動は→http://www.ivc-net.co.jp/food/shokuji/slow.html
もともとSlowとは、ファストフードのFastに対応した新しい造語です。ですからいわゆる「おそい、ゆっくり」という英語の原語の意味合いと異なったものです。言ってみれば効率と利益を追求する米国式のモダニズムに対するアンチテーゼだと考えられます。イタリアとの仕事をしていますと、ひたすら西欧的なビジネスを追求していると思っても、実際の生活では、このスローという概念に遭遇する場面が多々あります。それでありながら、イタリアにも現地特有のファストフードがあり、スーパーマーケットもあり、チープな中国産の衣料品や雑貨が良く売れています。このような矛盾の中で生きながら、矛盾をものともせずに生きているのが、現代のイタリア人のように思えます。
スローフード運動は→http://www.ivc-net.co.jp/food/shokuji/slow.html
2.Citta Slow・スローシティ運動
Citta Slow・スローシティ運動は、1998年に開催されたスローフード協会年次総会の席で、スローフード運動の発祥の地・ピエモンテ州のブラを初めとしてグレーベ・イン・キアンティ、オルヴィエート、ポジターノの4つの街の首長が、スローフードの精神を街づくりに適用しようとして始めた運動で、この運動の核となっているスローシティ連合に加盟している街はイタリアでは70に及んでいます。この運動は欧米を中心に各国で広まり、世界で28カ国の約100の街が加入しています。日本では唯一、気仙沼市が加入しています。第1回の国際スローシティ大会は、2008年6月にウンブリア州のオルヴィエートで開催されています。
スローシティの概念「幸せな生活を送っている市民が住む街には、自然に人が集まる」は、イタリアでも悩みの種だった地方の過疎化をどのように克服して、人口が呼び戻すかの議論の中で生まれました。
スローシティの概念「幸せな生活を送っている市民が住む街には、自然に人が集まる」は、イタリアでも悩みの種だった地方の過疎化をどのように克服して、人口が呼び戻すかの議論の中で生まれました。
奇抜なことを行うことではなく、歴史的に形成された伝統的な街が新しい時代の生活に対応すべく、どのようにその街の魅力をアピールするかを考えたのです。その結果が、効率や利益を追求すること無く、持続可能な環境社会を維持する中で、地方が持つ素晴らしい自然環境やゆったりとした生活、独自の食文化といったものを発展、進化させるという結論となりました。このスローシティ運動のトレードマークは、同様の考え方を持つスローフード運動に似せて、カタツムリをシンボル化したものです。
この運動を方向付けしているのが「スローシティ憲章」です。加盟にあたっては、人口が5万人以下で、州や地方の首都ではないこと、 独自の食文化を持っていること、環境重視の姿勢を持っていることなど55の指標をクリアしていることが求められています。
この運動を方向付けしているのが「スローシティ憲章」です。加盟にあたっては、人口が5万人以下で、州や地方の首都ではないこと、 独自の食文化を持っていること、環境重視の姿勢を持っていることなど55の指標をクリアしていることが求められています。
3.ルネサンスの華・フィアンメッタの家
ルネサンスの梟雄チェザーレ・ボルジアの愛人だったフィアンメッタ・ミケーレの家が、まだローマに2軒、残されています。ルネサンス様式の家であること、サンタゴスティーノ教会には自身の礼拝堂も所持していたこと、なにかと時代を騒がせた女性であったことから、今でも話題に上る女性です。ナボーナ広場の近くにあるこの家(冒頭写真)のある場所は、フィアンメッタ広場と名付けられています。フィアンメッタ・ミケーレは、1493年から、イタリア・ルネサンスの梟雄、チェーザレ・ボルジアの愛人だったというフィレンツェ生まれの赤毛の高級娼婦です。13歳の時にローマに移住し、すぐに枢機卿アンマンナーティーの愛人となります。約1年半あまりの愛人生活の後、アンマンナーティーは財産のほとんど全てをフィアンメッタに残して死去します。
枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとで、当時の教皇であったシクストゥス4世がこの遺言の執行に反対する等、当時の大きな話題となりました。フィアンメッタは相続した家屋敷を賃貸物件にして、豊かな暮らしを送りました。当時のローマの夜は治安が悪く、チェーザレは武装して、フィアンメッタの家に毎夜通っていたと言います。ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳でした。
枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとで、当時の教皇であったシクストゥス4世がこの遺言の執行に反対する等、当時の大きな話題となりました。フィアンメッタは相続した家屋敷を賃貸物件にして、豊かな暮らしを送りました。当時のローマの夜は治安が悪く、チェーザレは武装して、フィアンメッタの家に毎夜通っていたと言います。ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳でした。
フィアンメッタは、詩を暗誦しさまざまなテーマにおける討論をも行える、学識豊かな高級娼婦であったとされています。敬虔で信心深かった彼女は、教会への寄進も多く行い、サン・タゴスティーノ教会(上写真)に礼拝堂を所持しており、死後もここに埋葬されています。この教会は、フィアンメッタだけでなく、ローマの多くの娼婦の礼拝や寄進、埋葬を受け入れていました。これは教会としてはとても珍しいユニークな特徴ということです。
フィアンメッタの家は→http://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/fiammetta.html
サン・タゴスティーノ教会は→http://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/agostino.html
フィアンメッタの家は→http://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/fiammetta.html
サン・タゴスティーノ教会は→http://www.ivc-net.co.jp/guide/rome/agostino.html
4.旅の情報:バチカン美術館の夜間公開
5月から6月および9月から10月の毎金曜日に限りバチカン美術館の夜間公開(午後7時から11時、最終入場午後9時半)が行われています。比較的に空いており,ゆっくり作品を眺めることができることから、お薦めです。料金はお一人20ユーロで、インターネットから予約することもできるようになっています。
詳しくは→http://www.museivaticani.va/content/museivaticani/en.html
詳しくは→http://www.museivaticani.va/content/museivaticani/en.html