ルネサンスの華・フィアンメッタの家
ルネサンスの梟雄チェザーレ・ボルジアの愛人だったフィアンメッタ・ミケーレの家が、まだローマに2軒、残されています。ルネサンス様式の家であること、サンタゴスティーノ教会には自身の礼拝堂も所持していたこと、なにかと時代を騒がせた女性であったことから、今でも話題に上る女性です。ナボーナ広場の近くにあるこの家のある場所は、フィアンメッタ広場と名付けられています。
コロナーリ通りにある家は、かなり朽ちて来た印象です。それでも1階はお店があり営業しています。
フィアンメッタ・ミケーレは、1493年から、イタリア・ルネサンスの梟雄、チェーザレ・ボルジアの愛人だったというフィレンツェ生まれの赤毛の高級娼婦です。
13歳の時に、同じく娼婦だった母とともにローマに移住。すぐに枢機卿ジャコモ・アンマンナーティーの愛人となります。約1年半あまりの愛人生活の後、アンマンナーティーは財産のほとんど全てをフィアンメッタに残して死去します。枢機卿が娼婦に遺産を正式に譲渡、というのはとても衝撃的なできごとで、時の教皇であったシクストゥス4世がこの遺言の執行に反対する等、当時の大きな話題となりました。
フィアンメッタは相続した家屋敷を賃貸物件にして、豊かな暮らしを送った。当時のローマの夜は治安が悪く、チェーザレは武装して、フィアンメッタの家に毎夜通っていたと言う。ちなみに1493年当時、チェーザレ18歳、フィアンメッタ28歳であった。
ルネッサンス期の娼婦は、通りに立ち、客を呼び込む娼婦もいたが、フィアンメッタは、詩を暗誦しさまざまなテーマにおける討論をも行える、学識豊かな高級娼婦であったとされています。敬虔で信心深かった彼女は、教会への寄進も多く行い、1506年からサン・タゴスティーノ教会、入ってすぐ左に礼拝堂を所持していました。
チェーザレの愛人であったフィアンメッタ・ミケーリは、サンタゴスティーノ教会の賛助員の1人で、多くの寄進を行い、1506年には自身の礼拝堂も所持していました。死後もここに埋葬されています。この教会は、フィアンメッタだけでなく、ローマの多くの娼婦の礼拝や寄進、埋葬を受け入れていました。これは教会としてはとても珍しいユニークな特徴、だそうです。
サン・タゴスティーノ教会は→ こちらから
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